泰三さん番外編。。「人は最後の時など知らなくていい」

みなさまこんにちは、あっこです。

今回は 「泰三さん番外編」です。

書こうかどうしようかこれまでもずっと

迷っていましたが、泰三さんの事を書いたので、

今回書くことにしました。

長谷川泰三さんがどんな方かは、コチラ ↓ 

stargate-n.hatenablog.com

  泰三さん主催の 2014年5月の終わりの

2日間のヒーリングワーク、

私にとって、文字通り最初で最後になってしまった

泰三さんのワークに参加したときのことです。

 

私は2日目の最後、つまり本当に一番最後の

オオトリのフォーカスパーソンでした。

私はその時、次のようなシェアをしました。

”人は最後の時など知らないほうがいい”

それは私と、宇宙人Y先生との別れから導き出された

言葉でした。 

 

私はその時、泰三さんの体調がそれほど悪いとは、

全く知りませんでした。

午前中は薬の影響でろれつが回らないから

セミナーやワークは午後からだという事は

聞いてはいましたが、以前事故にあわれていて

あちこち具合がよくないとは知らなかったのです。

以下がその内容になります。 

 

 私が宇宙人Y先生と呼んでいる方のところに

 毎月通うようになって、7年くらいたったころのことです。

2011年2月のある日、当時勤めていたイオンで

職場の上司から、明日(2月20日)は

休んでいいと急に言われます。

出勤時間の調整とのことでしたが、当時はお客様感謝デーに

従業員が休むなどもってのほか!という時代だったので

驚きましたが、そのままはいと返事をして家に帰りました。

 

家に帰ると Y先生からファックスが届いていて、

2月20、21、22日の3日間で個人面談を受け付けるという

内容でしたので、私はすぐ先生に電話しました。

 

先生は開口一番、

”細田さん、20日しか空いていません。”と言いました。

私は大笑いして”私も20日しか空いていないよ、

ていうかたった今、20日はお休みしていいって

言われてきたんだよ”と言いました。

先生とはいつもこんな感じでした。

 

その20日が、先生の最後のセッションだなんて、

やはり知る由もなく、普通に行って、普通に話して、

普通に"またね”と別れてきました。

先生も特別何も言いませんでした、ただ何度も

”これから頑張るんだよ”と言ってくれました。

何か変。。。。、何かが変でした。

 

そのあと震災が来て、先生と全く連絡がとれなくなってしまい、

3月の終わりにようやく電話がつながったと思ったら、

”ヒーリングの仕事から手をひきました。

もう東京に行くことはないと思います。”と言われました。

 

ショックという言葉では言い表せないくらいでした。

先生とこの先もずっと一緒にゆくんだと思っていたのに

あまりに突然の事でした。

 

この後かなりの間私は、羅針盤を失った船のように

ヒーリングと称するものの間をさまよいました。

そして、先生の事を恨んでいました。

どうして最後ならそう言ってくれなかったんだろう!

わかっていたのなら

どうして前もって言ってくれなかったの!?

 

半年以上すぎて、少しずつ考える余裕ができたころ、

そういえば、その前の年の秋口くらいに

ヒーリングの仕事を年内で全部やめる予定だったけど、

宇宙からもう少しやれって言われたので、

少しだけのばした、というような事をちらっと

言っていたような事を思い出しました。

 

そして、その回が最後だとわかっていたけど

言わなかったのは、

先生なりの訳があるんだと思うようになりました。

 

たぶん、ですが、

その回が最後だどいうことを、

私がもし早くから知っていたとしたら、

私は知った直後からその最後の回まで、

”あと〇回しかない。。あと〇回。。。”と

最後までのカウントダウンをし、気持ちが塞いだ

ことでしょう。いよいよ最後の回となったら

悲しい話やしんどい話じゃなくて

楽しい話をして 笑って終わらせたいと思ったでしょう。

そうして最後をきれいに飾れてもなお、

できなかった過去の事を悔やみ、

してしまったことを引きずったことと思います。

 

先生はいつでも、

”そのままのあなたでここへ来なさい”と言っていました。

悩んでても泣きながらでもいいから 

安心してそのままの状態でおいでと。

 先生は最後の最後まで、飾ることなくつくろうことなく

私らしく その時そのままの私であってほしかったのでは

はないかと思ったのです。

 

たとえその最後の日にケンカしようと、

伝えられなかった一言があろうと、

その時のその人そのままで。。。

 

 神戸の震災の後、新聞にあるお母さんの投稿が載りました。

それは、2歳になる息子さんを震災で亡くされた方からで、

こんなことになるなら、虫歯になるからと

少ししかあげなかったチョコレートを 

もっと食べさせてあげればよかった、というものでした。

 

私的な話になりますが、

お姑さんはお舅さんが亡くなる前日、ケンカを

したのだそうです。

今まで黙っていたすべて、これは言うまいと思っていた

お舅さんの浮気疑惑に関しても、

すべての文句をぶちまけたそうです。

お舅さんは黙って聞いていたそうですが

お姑さんが全部吐き出し終わると

ポツンと、”昔はかわいかったのになあ。。。。”と

言ったそうです。

 

その後むしゃくしゃしながら美容室に行ったお姑さんが

帰ってきて見たのものは、

ソファですでに冷たくなっているお舅さんの姿でした。

ほおに一筋 涙の後があったそうです。

 

お姑さんはずいぶんご自分を責められたにちがいありません。

私がこの話をお姑さんから聞いたのは、

お舅さんの葬儀からかなり立ってからでした。

 ”亡くなっちゃうって知っていたら、

あんなこと言わなかったわよ。。。”

お姑さんは涙声でいいました。

 

私は、お舅さんはお姑さんの愚痴を

最後に全部言わせてあげたかったのかなと思いました。

なので、”それはそれでお舅さんは満足されたのでは

ないかと思います、”とお姑さんと話しました。

 

話が泰三さんのワークに戻ります。

”最後の時など知らないほうがいい”というこんな話を、

泰三さんにとって東京で最後となるワークの

一番最後に聞くとは

泰三さんも思っていらっしゃなかったでしょうし、

どんな思いで聞いていらっしゃったのだろうと

後々思い出しては何度も何度も苦しみました。

 

場合によっては

最期の時を知り、だからこそそれまでの間

やりたいことを全部やって、全力で生き切りたいという

こともあるかと思いますし、

もちろんそれも十分ありだと思います。

 

でもきっと私は、

突然 そのお迎えの白い鳥がやってきて

”ええ?もう?”なんて あたふたしながら、

なんの準備もできず

だけど、その時の自分を何も飾ることなく

罪悪感も無価値感も癒されることなく持ったまま

そんままの自分で向こうへいくのかもしれないなあ。。。

なんて、そんなふうに思いました。

 

もしかしたら、生まれる前に立てた計画の

半分もできないままなのかもしれないけど、

それでも、まあいいか、と思えたら

いいんだろうなと思います。

 

何度か下書きしながら、ずっと書けないでいたことです。

これで本当にようやく一区切りです。

読んでくださってありがとうございました。